十数年前、九州のある県に出張したときの話である。
市街地から少し離れた郊外にある訪問先に予定より随分早く着いた。移動の新幹線で駅弁を買いそびれたので、遅い昼食をとろうと食堂を探すことにした。郊外の通りには飲食店はなかなか見あたらず、ようやくとある民家の軒先に食事処を示す暖簾がかかっているのを見つけ立ち寄った。しかし店の扉は閉じたままだった。
諦めて立ち去ろうとしたとき、玄関の奥で人影が動いた。程なく扉が開き白エプロンをした年配の女性が現れた。
「今日は店じまいをしたところで申し訳ないです」と言ったあと、コート姿に旅行鞄を持つ私の姿に気が付き、「どちらからおいでですか」と訊ねた。私は関西からこの近くにある訪問先まで出張してきたことを告げた。
女性は「遠くから来られたのですね」と言い、少し考えてから「煮魚くらいしかできませんがそれでもいいですか」と訊いた。
私は手間をかけることを心苦しく思いながらも空腹には勝てず申し出に甘えることにした。
民家を改装した店内は、太い梁が通り囲炉裏や民具を揃えたしつらいが立派だった。女性は私を奥の座敷まで案内し、厨房に戻っていった。
よく手入れされた庭が見える日当たりのよい部屋だった。床の間には季節の花が活けられ、横の棚には優勝盾やトロフィーがいくつも飾られていた。よく見ると、高校や大学のバスケットボールの試合で最優秀選手賞などを受けたときの副賞だった。
やがておぼんに煮魚定食を載せて女性が現れた。
私は黙々と食べ、女性はふすまの前に座り私が食事をするのを黙って見ていた。
それは美味しい料理だった。先付けも煮つけも味噌汁も食堂の定食というより料亭の味がした。
私は「以前、料理店をされていたのですか?」と訊いてみた。女性は言外の意味を悟ったのかにっこりと微笑み、「駅前で割烹をしていました」と答えた。
それから女性は堰が切れたように身の上話を始めた。
若いころから夫婦でがむしゃらに働いたこと。やがて駅前に店舗を構えるまでになり子ども2人を育てながらその店を繁盛させたこと。
数年前ようやく子どもも独立したので、老後は夫婦でのんびりしたいと、郊外にこの家を買い食堂を始めたこと。
「夫婦で苦労したので子どもの教育は人一倍熱心にしました。長男は東京の大学を出て今も東京の会社に勤めています。長女はスポーツが得意だったのでいろいろな種目を習わせました。高校大学とバスケットの推薦で進学し、今は実業団チームで全国を駆け回っています」
それから彼女は庭を見ながら、こう言った。
「でも、私たちは熱心に子どもの教育をしたから、結局子どもたちは遠くへ行ってしまいました」
私はこの言葉が胸に響いて、飲み込もうとしていたご飯をのどに詰まらせた。
〈私の故郷も同じだ。熱心に教育をすればするほど、子どもたちは故郷を離れ都会に出ていく。そして戻って来ることはない。その繰り返しだったではないか〉
食事を終えて私は感謝の気持ちを相応の心付けとして渡そうとした。しかし彼女は、「それはいただけません」とお釣りを私に手渡すと、別れ際に意外なことを言ったのだった。
「あなたは、東京にでた息子によく似ている」
私は登り始めた坂道を訪問先に向かって歩きながら、彼女の言葉を何度も頭の中で繰り返していた。
「私たちは熱心に子どもの教育をしたから、結局子どもたちは遠くへ行ってしまいました」
「あなたは、東京にでた息子によく似ている」
今も忘れることのできない旅先での思い出話である。
(浩)