■ ある女子学生の挑戦
全盲の利佳さんは、3歳のころ病気で視力障害になり小中学校は県立盲学校に通った。ピアノが得意で海外の音楽祭に出場したとき、外国の学生とコミュニケーションをとるには英語が重要だと気づいた。それから英語を熱心に勉強するようになり、高校は「国際交流科」のある県立高等学校で学んだ。一時は音楽大学への進学も考えたが、高校1年生のとき修学旅行で訪れたカナダでホームステイ先のホストマザーが言った言葉が彼女の進路を変えた。猛勉強をして今春、一般入試よりも難しいといわれる推薦入試に合格し大学に進学した。今は故郷を離れて東京で学生生活を送っている。
利佳さんの進路を変えたホストマザーの言葉は次のようなものだったという。
「あなたは教育の機会を与えられたことに感謝すべきだ。世界には学校に通えない子どもがいる。恵まれた環境に感謝し、将来は国際貢献できる人間になりなさい」
利佳さんはこの言葉を聞いて奮い立った。自分がめざす新しい未来を掴んだのである。
(もし私がこのホストファミリーだったら)と考えてみた。(利佳さんにこのような言葉をかけられただろうか?)
私にはきっと、できなかっただろう。考えも及ばなかったと思う。ホストファミリーはパキスタンから移民してきた一家だったそうだ。この家族には祖国を離れざるをえなかった切実で困難な体験があったにちがいない。また、ホストファミリーに応募したのも一家の体験が根底にあったからではないか。だからこそこのホストマザーは、自分たち家族が体験してきた現実を基にして、はるばる日本から訪れた輝くばかりの才能溢れる全盲の少女に厳しくも温かく未来を語ったのではないか。あるいは、この少女に祖国の子どもたちの未来を託そうと思ったのではないか、と私には思えるのだ。
■ 修学旅行団への挨拶
もう15年程前のことになる。
私は、東京へ出発する中学校の修学旅行団の前に立ちPTA代表として挨拶をしたことがある。
少し肌寒い朝焼けが美しい早朝だった。「元気で行っておいで。今朝の天気のようにいい天気が続くといいね」短くそう言おうと準備していたのだが、ふと生徒たちが持っているカラフルなおそらく新品の旅行かばんを眺めているうちに、違う思いが胸に浮かんだ。
私はこんな挨拶をした。
「おはようございます。皆さんが待ち望んだとおりの澄み切った快晴になりました。今日から3日間、元気にいってらっしゃい。日本の首都、東京を見学し、日本がどんな国なのか自分の目でしっかり観察してきてほしいと思います。
だけど忘れないでください。
皆さんは、ショルダーバッグに荷物を詰め込んだら旅行に行けると思っていたのでしょうが、そんなことはありません。この旅行ができるのは、計画してくださった先生方や旅行会社の皆さんはじめ、見学先や宿泊先などたくさんの方々のお世話のおかげがあってこそ、なのです。その方々への感謝を忘れないでください。そしてもちろん、お父さんやお母さん、保護者の方々にも感謝の気持ちを忘れないでほしい」
「今から60年程前、日本は戦争に敗れて東京は焼け野原でした。焦土と化した街の何もないところから人々は汗と涙を流し泥まみれになって、東京の復興に努力を傾けたのです。その汗と涙の結晶が、圧倒されるほど巨大な高層ビル群なのです。どうぞ東京のどの見学先に行ってもこの先人の努力を思い出してください」
「元気でいってらっしゃい」
■ 私たちが忘れてしまったこと
空爆の恐怖に震えながら眠れない日を何日も過ごした。雨漏れのするバラックで、雨水を掬って飲んだ。そんな戦時中の日本のような生活を送る子どもたちが、現在もいる。それが世界の現実だ。
しかし私たちは、会社帰りに居酒屋で冷えた生ビールを一杯飲んで帰ることもできる。週末には望めばぶらりと小旅行を楽しむこともできる。こんな世界を誰がどこでどんな努力をして残してくれたのか、私たちは忘れてしまってはいないか。
利佳さんの将来の夢は、国際機関で子どもたちに役立つ仕事をすることだそうだ。もちろん得意なピアノも続けながら。充実した学生生活であれと、私は故郷の空の下から声援を送っている。
(浩)