■ 町工場の貼り紙
「パパ。帰りにノゾミの家の前を通ってもらえる?」
パパは怪訝な顔をして、「ドライバーを届けるのは、カオルちゃんの家じゃないの?」と返事をした。
「そうじゃないの。今朝からノゾミと連絡が取れないの。さっき、カオルからも連絡が取れないって言ってきたの。なんだか気になるのよ」
後部座席から見る車窓の景色が、郊外の田園風景から海岸通りに代わり市街地に入ったころから、ユイは心臓がどきどきしてきた。
〈なにがあったのだろう〉と不安は募るばかりだった。
『カザマ製作所』の前に着いたとき、真っ先に目についたのは、シャッターの下りた工場とそこに貼られた一枚の白い紙だった。車を降りて近づくと書かれた文字が見えてきた。
『都合によりしばらくの間休業します。カザマ製作所』
ユイは驚いて小走りで工場の左側にあるノゾミの家へ向かった。ドアホンを押したがいつもは鳴るチャイムが今日は鳴らなかった。ユイは家の庭を回って、ノゾミの部屋の窓を覗いた。窓の花柄のカーテンは閉じていて、薄暗い室内に人の気配はなかった。念のため、窓ガラスを5回ノックして合図を送ったが、やはり返事はなかった。ユイは小走りで工場前に戻った。
「パパ。家には誰もいないの。休業ってどういう意味?工場が倒産したってことなの?」
「いいや。倒産じゃないと思うよ。事情があって一時的に仕事を休みます、という意味だろう。最近は、国内経済の状況がよくないからね。最近、ノゾミちゃんのパパが病気になったとか体の調子が悪いとか、話題になったことはなかったかい?」
「ノゾミはそんなことはなにも言ってなかったわ。でも私、先週このペンダントをもらったときになんだか変だな、って思ったの。なんて言うか、なんのお礼なんだろうって」
ふと、ユイは、数週間前にノゾミが、〈パパが最近、部品を作る注文が少なくなって困っている〉と話していたのを思い出した。大きな会社からの注文が減ってきているというのだった。ユイは、自動車に乗ってからパパにそのことを話した。パパはすこし考えていたが、「パパの銀行でも地元の会社の評判や話題はよく出るけれど、カザマ製作所の名前は出ていなかったから大丈夫だよ、きっと」と言ったきり、前を向いて運転を続けてそれ以上なにも話さなかった。
■ 日曜日の散歩
7月に入ると日差しはどんどん強くなり、蒸し暑い日が続くようになった。来週には、一学期の終業式がある。いよいよ夏休みが始まる。〈こんな時期に工場を休んでノゾミの家族はどこへ行ったのだろう。そんなに工場の仕事がうまくいっていなかったのだろうか?〉とカオルは心配だった。
日曜日の夕方、すこし日が陰ってから、カオルは飼っている豆柴の日課の散歩に出かけた。住宅街の決まった散歩コースを一周してから、持っていたスマホを覗いたが、やはり、ノゾミからSNSの返事はなかった。いまもメッセージは未読のままだった。おそらくスマホの電源が入っていないのだと思った。お昼に、ユイからはSNSで、ノゾミの家と工場の様子を知らせる連絡があった。資源回収とプレゼント。ふたつの出来事はなにかを暗示しているように思えた。〈ノゾミの家族はどこか遠くへ引越ししてしまったのではないか〉カオルはそんな悪い予感がした。
カオルは明日、登校したらすぐに、ユイに相談しようと思った。〈きっとノゾミは月曜日も学校を休むだろう。そうなると、ユイの教室の朝の健康観察で先生はなんと言うのだろう?「ノゾミさんは○○でお休みです」と欠席の理由を言うのだろうか。それとも「あら、ノゾミさんはお休み?誰か聞いてない?」と驚いたように言うのだろうか。その言葉の反応で先生がノゾミの欠席の理由を知っているのかどうかがわかるはずだから〉とカオルは考えた。先生のその言葉の違いをユイに教えてもらって、カオルはユイと次になにをすればよいのか考えようと思っていた。とはいっても、なにかよい考えがあるわけではなかった。
■ 月曜日の昼休憩
朝、隣の教室の入り口でノゾミが登校していないことを確かめると、カオルはユイに「お昼休みにグラウンドの時計台で待ってるからね」と声をかけた。
給食を食べ終えると、カオルは給食当番の仕事を手早く済ませ、昇降口で運動靴に履き替えると一目散にグラウンドへと向かった。グラウンドからは賑やかな歓声が響いてきた。時計台にユイはもう来ていて、こちらに向かって手を振っていた。
「どうだった?」
「先生はもう知っていたわ。『カザマさんは、お家の都合で今週、欠席します』と言ったのよ」
「『お家の都合で』『今週』ってどういう意味だろう?」
「きっとママから連絡があったのよ。それで先生はノゾミの家の事情を知っているんだわ。そう、工場が休業している間、ノゾミは家族とどこかへ行ったのよ」
「どこかってどこ?」
「それは、わからない」
二人はそれ以上会話が続かなかった。しばらくの間、ふたりは大勢の子どもがグラウンドで遊んでいる姿を黙って眺めるばかりだった。
「ノゾミはひとりで大丈夫なのかな?話し相手がなくて淋しくないのかな?」とカオルが言った。
「スマホで私たちに連絡をくれればいいのに」
「ママから連絡しちゃダメって言われているんじゃないかな、電源も入っていないんだもの」
「わたしはいやよ!これっきりノゾミと会えなくなるなんて。そんなこと、絶対にいや」とユイは声を荒げたが、カオルには、どうすればノゾミと会えるのかなにも想像できなかった。
この日の下校途中にカオルとユイはもう一度、ノゾミの家へ立ち寄ってみた。しかしやはり、ノゾミの部屋のカーテンは閉じられたままで、家に人がいる気配はなかった。そして、ノゾミは結局、先生が言ったようにその一週間、学校を休んだのだった。
■ 翌週の中庭で
翌週の月曜日の昼休憩に、ふたりは中庭のベンチに並んで座って、とても憂鬱な表情でぼんやりと池の鯉を眺めていた。今週の木曜日には一学期の終業式がある。ふたりは互いの顔を見合わすと、思わずため息をついた。その時だった。「あのう」と背後から声が聞こえると同時に、池の中の紅白模様の鯉が跳ねてバシャと水音を立てた。
「あのう、君たち、カザマさんの友達だよね」
ふたりは驚いて後ろを振り返った。そこには、紺色の野球帽をかぶった6年生の男の子が立っていた。
カオルは、その男の子が先週、飼育委員会の当番活動で鯉の餌やりに来ていた男の子だったことに気がついた。資源回収の日のノゾミのパパのことを話していた子だった。
「カザマさんのことで聞きたいことがあるんだけど、ちょっといい?」
カオルとユイはまた、顔を見合わせた。
「えっ、ええ。ノゾミのことですよね」と、カオルは返答した。
男の子は頷くと、帽子を取って半そでシャツの肩の部分で頬を流れる汗をぬぐった。
「カザマさんは今週、学校を休んでいるんだよね」
「そう。なにかお家の事情で休んでいるの。理由はわからないけど」とユイが答えた。
「ぼくは登下校でカザマさんの家の前をいつも通るんだけれど、最近いつ通っても工場は休みだし、昨日の夜も、塾の帰りに自転車で前を通ったら、工場にも家にも電気が点いていなかった。だから、どこかへ引越ししたのかなと思ったんだ。もしなにか知っていたら教えてくれないかな?」
カオルとユイは再び、顔を見合わせた。
「どうしてノゾミのことが知りたいんですか?」と、ユイが訊いた。男の子は、少し困った表情を浮かべたが、「ぼくは小さいときにカザマさんと同じ保育所に通っていたんだよ。だから、ノゾミさんのことはよく知っている。それに、カザマのおじさんにはいつも資源回収でお世話になっている。だから心配なんだ…」と言ったあと、もう一度帽子を取ると、さっきとは逆のシャツの袖口で頬の汗をぬぐったのだった。そして、大きく息を吸い込んでから、「昨日の出来事なんだ」と言うと、その男の子は話し始めた。
■ 少年野球の練習試合
ぼくらの少年野球チームは昨日、隣町の野球チームと練習試合があって、市の外れにある緑が丘市民球場へマイクロバスで出かけた。試合は、6対3でぼくらのチームが勝った。意気揚々と帰る途中に、空っぽになった給水サーバーにスポーツドリンクを補充するために、コーチが運転手さんに「ちょっと最寄りのコンビニに停まってほしい」と言ったんだ。
やがて、国道沿いのショッピングモールにあるコンビニの駐車場に、ぼくらを乗せたマイクロバスは停まった。コーチが買い物に出掛けている間、ぼくはなに気なく窓の外を眺めていた。すると、コンビニの斜め隣の食品スーパーからひとりの女の子が出てくるのを見かけたんだ。右手には買い物で膨れたエコバックを持っていて上から野菜が少し覗いていた。女の子は、停めてあった自転車の前かごに買い物バックを置いた。そのあと、ヘルメットをかぶって左右を確かめる動作をしたときに、ぼくには正面からその女の子の顔がはっきり見えたんだ。それは、ノゾミさんだった。
ぼくは驚いた。〈どうしてあの子は、このショッピングモールのスーパーで買い物をしているんだ。どうしてこんな離れた場所に自転車で来ているんだ〉、とぼくの頭には次々と疑問が積み上がった。
「それで、本当にその子はノゾミだったんですか?!」とユイが訊いた。
「近所のスーパーなら店員さんもよく知っているから安心して買い物ができるけれど、そんな遠くの場所の知らないスーパーで、ノゾミは買い物ができるのかな?だってノゾミは声を出して話ができないんだもの」とカオルも応じた。
「確かにノゾミさんだった。ノゾミさんはほとんど耳が聞こえない。ぼくは小さいときから、ノゾミさんが困っている場面をたくさん見てきた。だからぼくは、どうしてひとりで遠くまで買い物に来ているのか驚いたんだ。しかも自転車で。もし知っているのなら、その理由を教えてほしいんだ」
男の子の表情は真剣で、額にはまた、汗がいつ筋も流れていた。(続く)
(浩)
※ 「続・学校の四季」シリーズは創作で、登場人物や団体名などは架空のものです。