■ 兄と妹
リモートオフィスの窓から瀬戸内海が見渡せて、近景には個性的な造形の住宅が丘陵に沿って放射状に広がっている。その風景と夕焼けの茜雲とのコントラストが美しい。タカシは、机上のパソコンで描画操作をしていたマウスの手を止めた。西の空の遠方に低く黒い雲が広がっているのを見つけたのだ。それは今季初めての雪雲だった。
「今夜は粉雪が舞うかもしれないな」と独り言を呟くと、サイドテーブルに置いていたマグカップを取り上げ、両手で包み込むようにして掌を温めた。コーヒーを一口飲むと、スマートフォンから♪プルルルル♪と着信音が響いた。妹からだった。
〈お兄ちゃん。ユキコよ。誕生日プレゼントありがとう。素敵なセーターで嬉しかったわ、いまも着ているのよ〉
「気に入ってよかったよ。学生寮はどう?友達はできた?」
〈もちろんよ、いま誕生日のパーティを開いてくれているの。それで相談なんだけど、月末にお兄ちゃんのクルマを貸してもらえない?みんなで志賀高原へスキーに行こうって話しているの〉
「月末なら空いているから大丈夫だよ。来週中にスタッドレスタイヤに履き替えておくよ。念のためにスキー板のキャリアも付けておこうか」
〈わかったわ。じゃ、お願いね〉
「雪道は慎重に運転しろよ」
〈ええ。それからお兄ちゃん…〉
「なに?」
〈ううん。いつもありがとう〉
「ああ、気にするなよ。じゃ」
タカシは胸が温かくなるのを感じた。ユキコはたったひとりの妹だ。ユキコが大学に進学したいと言ったとき、奨学金の手続きをしたり銀行から教育資金ローンを借りて学費を用意したりしたのもタカシだった。タカシにとってユキコはかけがえのない家族だ。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)がパンデミックとなり世界中に広がった2020年から、タカシの会社にも激動の変化が起こった。従前から計画されていたリモートオフィス構想がパンデミックを境に一気に本格化し、淡路島に本社機能を移転することになったのだ。その第一陣としてタカシたちが抜擢され21年の春には赴任した。
淡路島での生活は、都会に勤務していたころとは多くの面で激変した。空き家になっていた古い一軒家を借りて居住空間は4倍になったのに家賃はほぼ半額になり、生活費も3割減少した。それで、この転勤を機会に1年後、母親を呼び寄せて一緒に生活することにした。
バスや電車での移動は不便になったので、休日に観光地へ出かけたり、母を連れて買い物に出掛けたりするために、長年の夢だった自動車を購入した。中古車だがSUVタイプのスポーツ車だ。学生時代、自分が将来スポーツ車を購入できるようになるとは、夢にも思っていなかった。そうだ。想像もしていなかった未来がいま現実になっている。
■ 兄の決意
タカシには、初雪が降るこの時季に決まって思い出す記憶がある。その記憶の日には遠い将来、自分の家族の人生に今日のような日常が訪れるとは思い描けなかった。しかし、その記憶は、思い出すたび、歳を経るたびにまるで透かし彫り細工を施していく装飾品のように美しく昇華されていった。
遠い記憶のあの日、タカシは小学6年生だった。その日、聞いた言葉がタカシを鼓舞したのだ。
〈だからいまは、勇気を振り絞るんだ〉
泣き疲れて眠った翌日の朝、その出来事は奇跡のように起こった。だから、前日に聞いたその言葉が、タカシには〈啓示〉のように心に刻まれたのだった。
その日を境にして、タカシはある決意を固めた。翌月から進学塾の特進コースを辞めることを母に告げると、母は、「お前が将来賢くなることだけが私の夢だったのに」と嘆いて泣いた。
しかし、タカシの決意は揺るがなかった。そして母に、タカシの月謝をユキコが通いたがっていた体操教室と英語教室の月謝に充ててほしいと願い出た。2つの教室の月謝を合わせても自分の進学塾の月謝よりはるかに安価だということを、タカシは知っていた。また、自分が進学塾に行かなければその時間、妹の世話もしてやれると考えたのだ。タカシには、そうすることで妹も自分もきっとよい未来を創り出せるのではないか、と子どもなりに思ったのだ。そのタカシの決意は、自分の進路や将来を諦めるものではなかった。自分は自力で「新しい道」を歩み始めるという決意表明でもあった。
■ 妹の入学
タカシが小学6年生になったときに、妹のユキコは小学校に入学した。タカシは兄として妹の入学が心配でたまらなかった。ユキコが産まれる前に父親は家を出て行ったから、ユキコは父親の顔も知らない。母親がひとりで兄妹を育ててくれた。だからタカシは、自分がユキコの父親代わりになるのだと心に誓って世話をしてきた。
入学してから暫くの間は、小学校までふたりで手をつないで登校した。下校の時刻はふたり違っていたので、タカシが下校する時刻になるまで、ユキコは学校が終わると隣にある公民館のなかの学童保育室で預かってもらっていた。タカシは授業が終わるとそこへ妹を引き取りに行くのである。
「お兄ちゃん。公園へ行こう」
ユキコは帰り道に、公園の花壇に生えている草花や地面を動き回る昆虫を観察するのが好きだった。一度しゃがみこむとなかなか前には進まなかった。タカシはそんな妹が可愛くて仕方がなかった。それで文句も言わず、妹が飽きるまで草花を集めたり昆虫を捕まえたりしようとするのを黙って見ているのだった。早く帰っても家には誰も待ってはいなかった。母は仕事の掛け持ちやシフトの順番で帰りが遅かった。とくに週末は夜遅くになることが多かった。暗い孤独な部屋に帰るよりもここで遊ぶほうがずっと心地よかった。
タカシが妹の〈あること〉に気づいたのは5月のことだった。妹とのんびり下校をしている途中、いつものように公園の花壇の前で遊び始めたユキコの様子を、タカシはブランコを漕ぎながらぼんやり眺めていた。ユキコはしきりとなにか独り言を言っていた。それは歌声のようにも聞こえた。少ししてタカシは思わず「あっ!」と驚きの声をあげた。いままで自分が気にも留めていなかった、妹の〈あること〉に気付いたのだった。(続く)
(浩)
※ 「続・学校の四季」シリーズは創作で、登場人物や団体名などは架空のものです。