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学校の歴史巡り④「二宮金次郎像の謎」

 

■ 中庭の二宮金次郎像

 

 私が勤務したある学校の中庭に、二宮金次郎像が建っていました。秋の落葉の季節、石像の周辺の枯れ葉掃除をしていたときに、ある日ふと、「金次郎はなんの本を読んでいるのだろう?」と思ったことがありました。

 

 ほうきを片手に私は早速、二宮金次郎像を調べてみることにしました。本の背表紙を見、開かれたページも見てみました。皆さんも予想されたように、そこにはなにも書かれてはいませんでした。このことが後日、私が「二宮金次郎像」を調べようと考えるきっかけになったのです。

 

 まず初めに、なんの本を読んでいるのかという疑問を解決しておきましょう。金次郎が読んでいる書物は、中国の古典『大学』で、中国の政治学、帝王学を記した書物です。

 

 では、なぜ「二宮金次郎像」が学校に建っているのでしょうか。薪・柴運びをしながら本を読むという「勤労勤勉の象徴」としてだと言われていますが、そもそも「二宮金次郎」とはどのような人物だったのでしょうか、調べてみたいと思います。

 

■ 少年期の金次郎

 

 金次郎は、天明7(1787)年に相模の国栢山(かやま)村(現在の神奈川県小田原市)に生まれました。生家は農家で、14歳のときに父親を亡くし次第に家は貧しくなっていきます。そして、16歳のときには母親も亡くします。弟2人と暮らしていかねばならなくなった金次郎は、追い打ちをかける災難に見舞われます。その年の田植えが終わった田地が、決壊した川の濁流にのみ込まれて荒地となってしまったのです。ついに、兄弟3人は離散し、金次郎は伯父の家で養ってもらうことになります。この体験から「生家の復興」が、少年金次郎の人生初めの目標となります。二宮金次郎像は、そのような少年期の金次郎の姿を表現したものです。

 

 私の見た金次郎像は石像で、背中に薪(燃料にする割り木)を担いでいました。ところで、いちばん多く鋳造されている銅像の金次郎像は、背中に柴(燃料にする雑木の小枝)を背負っています。このように違いがあるのは、石像より銅像のほうが加工精度に優れ細部まで表現できるためだそうで、幼い少年像には薪よりも柴が適切とされたようです。もちろん薪と柴どちらかが正しいということではありません。持っている書物も銅像の場合は、細かく文字が刻まれているものもあるようです。

 

■ 青年期の金次郎

 

 16歳から18歳までの間、金次郎は終日、伯父の家業を無給で勤め、夜は独り書を読んで学びます。その灯りの灯油も、生家の荒地に菜種を蒔いて育て、それを油屋に持っていき燈明油と交換してもらったといいます。

 

 金次郎は勤勉で、また機知にも優れており、16歳のとき、洪水で荒地になって使われなくなっていた土地を休日ごとに開墾し、村民が捨てた苗を拾い集めて植えてみました。これが1俵余りの収穫となり、金次郎は翌年、その籾を苗にしてまた植え付けをします。これがまた大きな収穫となったことをきっかけに数年後、金次郎は伯父の家を辞して、いよいよ生家の復興に取り掛かるのです。

 

 文化3(1806)年、20歳の金次郎は実家に帰り田地9a余りを買い戻し、荒地を農地に耕します。23歳のときには田地26a余りを買い戻します。そして、24歳には買い戻した田地は1.4haとなり見事に生家の復興を果たすのです。近在の農家からは、模範的な農家、倹約家、勤勉家と評価され、その評価は藩主にも知られるほどになりました。

 

 文化8(1811)年、25歳の金次郎に、小田原藩家老・服部家の奉公人から依頼があり、住み込み奉公をすることとなります。主たる用務は、藩の儒学者の屋敷に服部家の子息3人と共に通って、帰宅後、子息の復習の家庭教師をするというものでした。この経験は、それまでほぼ独学で書物を読み、自己流に内容を解釈してきた金次郎にとって、自分が身につけた学問を藩で随一の知識人から学び直す貴重な機会となりました。

 

■ 金次郎が成し遂げた仕事

 

 文政4(1821)年、35歳の金次郎は一農民であるにもかかわらず、小田原藩主から経済的に破綻した下野の桜町領(栃木県真岡市)の復興改革を命じられ、それを見事に成功させます。それ以降、金次郎は600もの農村の復興を実現するのですが、特筆すべきは、金次郎はその仕事で得た報徳金(報酬)を私財として蓄えることは一切せず、次の復興の資金として投資したことでした。

 

 金次郎はついに、天保13(1842)年56歳のときに、幕府の直参(じきさん=江戸時代、将軍に直属した一万石以下の武士)に取り立てられます。これを機に金次郎は、公式の場での名である諱(いみな)をつけ「尊徳(たかのり)」とします。「尊徳(そんとく)」と読むようになるのは後年のことで、弟子たちが尊敬の意味でそのように読むようになってからだといわれています。

 

■ 戦前・戦後の二宮金次郎の評価

 

 第二次世界大戦までは、「手本は二宮金次郎」とまでいわれ、多くの学校にその銅像が建てられましたが、戦後はその評価が一変します。GHQ(連合国軍総司令部)の民主化政策により、戦前の「修身(道徳)」が排除すべき教育の矢面に立たされたからです。

 

 しかし時を経ていま、二宮金次郎の仕事と生涯を顧みると、私たちはその功績のどこにも、非民主的で排除すべき思想を見つけることはありません。むしろ当時の近世社会において、きわめて革新的で民主主義的思想に基づく農業実践、経済改革が行われたことに驚くはずです。また戦後、民主主義教育が進展・定着したはずのわが国で、バブル期に一時期もてはやされた利己的な立身出世主義の経営者たちと、金次郎の功績とを較べると、本質的に生き方や実践の質が異なることに気づくはずです。どちらがより民主主義の理念を体現しているのか、それは明白です。

 

 昭和24(1949)年、GHQの高官であったインボーデン少佐はその論文で、「二宮金次郎こそは、近世日本が生んだ最大の民主主義的な大人物」「アメリカのリンカーンにも比すべき人物である」とまで述べ再評価していますが、それが正当な人物評価ではないか、と私には思われます。

 

 身分制度の厳格な近世社会で、金次郎はどのようにしてその考え方や農業経営の改革策を農民や武士に訴え、そして納得させ実現させたのか、その思想と実践の真髄こそが後世に生きる私たちが学ぶべき教訓だと、私は思います。

 

 もし今秋に、学校開放週間・月間で学校を訪れる機会があるようでしたら、すこし寄り道をして校内を巡って「二宮金次郎像」を探してみてはいかがでしょうか。もし見つかったら、なんの本を読んでいるのか、背負っているのは薪か柴かを確かめてみてください。そして、その像を残そうと判断した地域の先人たちに思いを馳せてほしいと思うのです。

(浩)


※ 本稿で参考にした文献は、次のとおりです。

『代表的日本人』内村鑑三・著、鈴木範久・訳、岩波文庫、1995.7

『教養として知っておきたい二宮尊徳』松沢成文・著、PHP新書、2016.3

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