■ スイミングスクールの帰り道
4月の遠足であのおばあさんに出会ってから、ユカリとその友だちの間では、おばあさんとの奇妙な出会いは何度となく話題にのぼった。〈おばあさんのおかしな言動は?〉〈あとから現れた白衣を着た若い男の人は?〉と、ユカリたちの想像はどんどん膨らんでいった。しかしそれもやがて、慌ただしく始まった学級活動や新学年の学習の忙しさから忘れ去られていった。ところが、6月の神社での再会で、ユカリはまた、あのおばあさんの言動を考えるようになった。「息子をなくした」と言うおばあさんの話は、ユカリにとってひと事ではなかったのである。
そんな矢先のことだった。土曜日の午後、スイミングの選手コースの強化練習が終わった帰りに、友だちと自転車で、あの神社の参詣道を通ったときのことだ。友だちが、急にブレーキをかけて自転車を止めると、ある方角を指差した。ユカリも止まって、その方角を見た。すると鳥居のほうに、杖を突きながらゆっくりと歩いているおばあさんの姿が見えた。あのおばあさんだ。少し離れた後ろを2、3歳の男の子が付いてきている。男の子のそのまた後ろにはその子のお父さんらしい人も歩いていた。
ユカリは最初、おばあさんとその親子連れは他人だと思っていた。しかし、付き添いの白衣の人がいないことに気が付いた。それで、その後ろの男性に視線を向けた。その人が、いつもおばあさんに付き添っている人ではないかと思ったのである。遠くてしかも後ろ姿なのではっきりとはわからなかった。〈あの3人は家族なの?〉ユカリの頭のなかには、新たな疑問が浮かんできた。
■ ユカリのお守り袋
その日の夜、ユカリは自分の部屋でベッドに寝転がって、久しぶりに、お母さんからの手紙を読んだ。頭のなかには昼間の3人の姿が浮かんでは消え、消えてはまた浮かんでいた。お母さんの優しい文字。お母さんの優しい言葉。便箋の香りをかぐとお母さんのにおいがするような気がした。
「ユカリさん、10歳のお誕生日おめでとう。今年は小学校4年生になるのですね。4年生から勉強も少しずつむずかしくなるそうですから、しっかり復習をしてくださいね。いまは寒いけれど、もうすこしすると花がいっぱい咲く季節がやってきます。ユカリさんは、どんな花が好きですか?お母さんはガーベラが大好きです。ガーベラはお母さんの誕生日の花だから。花言葉は、『愛』『希望』『つねに前進』、お母さんの好きな言葉がいっぱい。ユカリさん。たいへんだけど、おうちのお手伝いをお願いしますね。せんたくやせんたくもののかたづけは上手になりましたか?しっかりお父さんのお手伝いをしてくださいね」
読み続けていると涙が溢れそうになって、ユカリはベッドから起き上がった。そして、ランドセルにしまってあるお守り袋を取り出して握りしめた。辛いとき、悲しいとき、いつもユカリはお守り袋を握りしめた。そうすると不思議に勇気が湧いてくるのだった。ユカリのお守り袋は、3歳の七五三のお宮参りのあと、お母さんが作ってくれた。そのお母さんは、ユカリが5歳のときに病気で亡くなった。お守り袋のなかに入れているお守りは毎年お正月に、お父さんと一緒に神社に初詣をして新しく交換する。
わたしはお正月が待ち遠しい。だって、それからすこし経つと、わたしの誕生日が来るから。誕生日には弁護士の先生が、天国にいるお母さんから手紙を届けてくれる。わたしは毎年、どきどきしながらその手紙を開ける。今年はなんて書いてくれているんだろうと、わくわくする。その手紙には、お母さんの優しい言葉が溢れている。まるで、わたしのすぐそばにいてわたしの様子を見ているかのように、わたしのことをわかってくれている。そして、わたしの心を励ましてくれる。気持ちを慰めてくれる。お母さんはわたしをいつでも天国から見守ってくれている。だから、わたしは寂しくない。
■ ショッピングモールの音楽教室
その当時、私は休日にはよくドライブをして、家族を連れて郊外にあるショッピングモールへ行っていました。その日も、家族で出かけて妻と娘はフードコートへ、私はエスカレーターを登って3階にある楽器店が運営する音楽教室へ向かいました。というのは当時、4年生までの学級担任は、音楽科の授業で指導をするために基本的な楽曲はピアノで弾けるようになっておく必要があったからです。ピアノ教室のあるフロアを歩いているときに私は、ギター教室の前のソファーに座って順番を待っている男性がいることに気が付きました。それは見覚えのある男性でした。細身で顔の輪郭などが、あのおばあさんの付き添いをしていたひと、総合運動公園と神社で見かけた白衣の医師と、とてもよく似ていたのです。
腕時計を見ると、ピアノのレッスンが始まるまでまだ30分ほど時間がありました。受付のレッスン時刻表ではどの楽器の開始時刻も終了時刻も同じだったことを、私は思い出しました。私は男性に声を掛けることにしました。「こんにちは。ひと違いならお許しください。以前、草守神社でお会いしませんでしたか?」男性は読んでいた洋書のペーパーバックを閉じて、顔を上げました。
「ああ、あのときの学校の先生でしたか。先生もレッスンに来られたのですか?」「はい。じつは私、ピアノ教室に通っているのです。音楽の授業で必要なものですから。先生はギター教室へレッスンにいらっしゃったのですか?」「そうなのです。医療センターで今度、患者さん向けにミニコンサートを開くのですが、アコースティックギターで出演しようと思って、それで通っています」と言い私の目を見つめました。なにか付け加えて言いたげな様子でしたがなにも言わず、その代わりに明るく笑ったのでした。それは私にとっては思いがけない笑顔でした。どういう意味の笑顔なのか、私には想像ができなかったのです。(続く)
(浩)
※ 「続・学校の四季」シリーズは創作で、登場人物や団体名などは架空のものです。