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続・学校の四季①「四つ葉のクローバー」(上)

 

 

■ 1枚のメッセージカード

 

 手紙を書き終えて、送付先の名称が気になった。この宛名で正しかったのか、机の脇卓から名刺フォルダーを取り出して調べ始めた。パラパラとページをめくっているとふと、名刺の間に収まった一枚のカードに目が留まった。

 

「おみまいにきてくれてありがとうございました」

 

 小学校4年生くらいの字だろうか、丁寧でしっかりとした楷書で書かれている。どんな出来事だったのだろうとカードを取り出して裏面を見たが、手作りのカードらしく余白にはなにも書かれていなかった。在校生が病気で長期入院したり事故で入院したりしたときにお見舞いに行くことがある。そのときのメッセージかと想像したが、名前が書かれていないのでは思い出しようがなかった。それに何故、名刺フォルダーに収めておいたのだろう、と少し気にはなった。

 

 数日経ってからある瞬間に、このメッセージカードが再び頭に浮かんだ。その出来事の記憶が前触れもなく頭に甦ったのだった。

 

■ 校長室が居場所だった子ども

 

 校長室は、生徒にとっても保護者にとってもあまり訪れたくはない部屋で、決して居心地のよい場所とはいえないだろう。ところが、その校長室が好きだという子どもも、稀にではあるがいるのも事実だ。私にも、校長室が居場所だった子どもが何人かいた。それぞれが気心の優しい、そしてそれぞれに事情のある子どもたちだった。

 

 ひとりは、アスペルガー症候群の特徴のある子どもで、私に会うとロボット掃除機の話を、ノートに図を描きながら延々と解説した。ひとりは、ADHD(注意欠陥多動性障害)のある子どもで、教室での一斉授業に馴染めず校長室を避難場所として時折訪れるようになったのだった。そして、もうひとりがこの「メッセージカード」を書いた女の子だった。ショートカットのよく似合う、細身で手足が長く目の大きな女の子だった。初めて会ったとき、フェルメールの絵画に描かれた少女に似ているなと思った。

 

 カウンセリング室の担当者が病気で休んで、代わりに私が担当することになったことがあった。この日に、カウンセリング室に来ることになっていたのがこの女の子だった。私はその日、急いで処理しなければならない案件があり、この子に事情を話してカウンセリング室ではなく校長室で勉強しないかと訊いてみた。すると、躊躇することもなく行くと言ったので、校長室へと移動した。それから暫くの間、私は机に向かって電話や事務仕事をし、その子はその間、静かにソファで本を読んで待っていた。

 

 これがきっかけになって、その子は月に2、3回、校長室のドアの窓ガラス越しに、なかの様子を覗き込むようになった。そして私の態度を確かめて、時間に余裕がありそうなときには、慎重に3回ノックをしてドアを開けた。

 「おじゃましてもいいですか?」

 

■ ある雨の日の来訪

 

 6月の梅雨に入ったある雨の日のことだった。部屋で書類を読んでいると、「コン、コン、コン」とノックの音がした。その音の調子で、私には誰だか判った。

 「おじゃましてもいいですか?」

 椅子から立って出迎えると、その日は元気がなくひどく落ち込んでいた。両目は充血し唇は渇いていた。フリルの付いた蝶柄の黄色いワンピースの襟や袖口は汚れたままで、洗濯もせず数日同じ服を着回しているように見えた。

 

 ソファに座ると私は訊ねた。

 「目が赤いけど痛くはないかな?」

 その子は黙って小さくうなずいた。そして深く息を吸ってから、かすれた声でぼそぼそと話し始めた。

 「昨日の夜、ママの様子がいつもと違って心配でした。台所のシンクは食器がいっぱいになっているし、話しかけてもちゃんと返事をしてくれないし、どうしたのかな、頭が痛いのかな、体の具合が悪いのかなと思いました」

 

 「夜、弟とテレビを見ていると、パパが帰ってきて突然、ママとけんかになりました。大声のあと何かがガシャンと割れる音がしたので、私は弟を連れてすぐにカーテンの後ろに逃げ込みました。弟に両手で耳をふさがせて、パパとママの声が聞こえないようにしました。私もそうしました。ふたりの話を聞きたくなかった。これ以上ふたりの話を聞くとパパとママが嫌いになってしまうような気がして怖かったのです。弟も私もガタガタと震えながら、嵐が過ぎ去るのを待ってじっと我慢をしていました」

 

 「しばらくすると玄関のドアがバタンと閉まる音がして、パパが出かけていきました。ママは、寝室に入って泣いていました。私は泣いている弟にお風呂に入っておいでと言って、お風呂場へ連れて行って服を脱がせてあげました。そのあと私も急に悲しくなってきて、えんえんと泣きました。でも私は泣くだけで、ママに何もしてあげられないから、よけいに悲しくなってきました。だから私は、泣きながら台所のシンクにたまっていた食器を洗いました」

 

 そう言い終わるとこの子の頬を涙が流れた。こぼれた涙は次々に、膝元に描かれていた蝶にあたって滲んで消えた。

 

 私の胸のなかに、やり場のない憤りとぶつける相手のいない怒りが込み上がってきた。その感情を抑えることができず、私は窓の方に目をやった。窓ガラスの向こうは霧雨が降っていた。外は森閑として静かだった。

 

 この子が台所で食器を洗ったときのように、私もこの子の気持ちを少しでも穏やかに、この子の心を少しでも浄化できないものかと思った。しかしそのときの私には、なす術が何ひとつ思い浮かばなかった。(続く)

(浩)

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