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先人が語る教育の智恵と本質⑤「5銭白銅貨をめぐる2人の話」

■ 明倫館と長州ファイブ

 

山口県萩市にある萩藩の藩校『明倫館』を、私が初めて訪れたのは社会人になってからだった。その当時『明倫館』跡は、萩市立明倫小学校(現在は移転している)になっていた。重厚な趣のある木造校舎で、玄関ロビーに吉田松陰先生の座像が置かれていたのが今も印象深い。

【上写真:旧明倫小学校玄関】

この旅行で私は初めて「長州ファイブ」を知った。文久3(1863)年ロンドンに密航した長州藩の5人の若者のことである。

 

 井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)がその5人で、最年長が井上聞多(28歳)、最年少が野村弥吉(20歳)だった。

 

 ロンドンのイングランド銀行には、当時彼らが銀行を見学した際に記したサインが現在も残されている。1000ポンドの銀行券に書かれた署名である。1000ポンドは現在のレートで換算すると約15万円になる。そんな高額紙幣が流通していたのかと不思議に思うだろうが、もちろん本物の紙幣ではない。当時イングランド銀行が、特別な見学者のために作成した「芳名録」替わりの見本紙幣だったという。

 

■ 遠藤謹助の秘めたる思い

 

 大阪市内にある造幣局は「桜の通り抜け」で関西では有名である。毎年4月の桜の時季、普段は立ち入り禁止になっている構内の桜並木を市民に一般開放して大賑わいになる。

 この「桜の通り抜け」を始めたのが、当時造幣局長だった遠藤謹助である。じつは「長州ファイブ」のうち4人が明治維新後に造幣局長を歴任しており、なかでも遠藤は造幣局に時期を隔てて2度勤めている。

 

 初めて造幣局に勤めたとき遠藤が心に秘めていたのが当時、外国人を高額の報酬で雇い入れ設備も技術もすべて外国頼りだった造幣事業を日本が独立して行いたいという強い意志であった。しかしこのときは外国人技術者と衝突し、わずか4年で大蔵省に転勤することになる。

 遠藤の思いがようやく実現したのが1889年で、造幣局長として戻った遠藤は、日本人技術者のみで初めて貨幣を製造した。それが「5銭白銅貨」だった。

 

■ 松下幸之助の思い出

 

造幣局が5銭白銅貨を製造し始めて15年後同じ大阪で、9歳の少年が5銭白銅貨を嬉しさのあまり握りしめていた。それは少年が奉公先でもらった初めての給金だった。

少年は奉公に出てから毎夜、布団に入ると故郷にいる母のことを思い出しては涙を流す日が続いていた。この少年こそ若き日の松下幸之助である。

 

91歳になったとき幸之助は、「今までの人生で一番うれしかったことはなにか」と問われて、奉公先で初めてもらったこの5銭白銅貨の話をしたという。

「うれしさに母恋しさも忘れて天にも昇る心持ちだった」と語ったそうだ。

 

大阪府門真市にある『パナソニック本社』の敷地南端に、旧本社社屋の外観を採用し建設された『松下幸之助歴史館』がある。

館内には、幸之助が23歳のときに創業した『松下電気器具製作所』の復元社屋も展示されていて、創業社屋から旧本社、現本社へと成長を続けてきた会社の変遷を見ることができる。

【上写真:松下幸之助歴史館(手前)】

『道』と題された幸之助の言葉が、館内に展示されていた。

 

「自分には

 自分に与えられた道がある」

「心を定め

 希望を持って歩むならば

 必ず道はひらけてくる」

 

 5銭白銅貨の製造に心を込めた遠藤謹助と、5銭白銅貨を得た喜びを終生忘れることのなかった松下幸之助の逸話から、現代を生きる私たちが学ぶことは多い。

(浩)

 

※ 「長州ファイブ」については、『密航留学生「長州ファイブ」を追って』宮地ゆう著、(一社)萩ものがたり発行2005を参考にした。

※ 遠藤らが製造した「5銭白銅貨」は菊の図柄が描かれていたことから、のちに「菊5銭白銅貨」と呼ばれた。しかし偽造が絶えず8年後には偽造防止のため図柄を稲に変え「稲5銭白銅貨」が造られた。したがって幸之助少年が手にした「5銭白銅貨」は正確に言えば「稲5銭白銅貨」であることを付記しておく。

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