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明日へ届ける手紙②「白熱教室」

■ 社会的正義とは何か

 

 マイケル・サンデル教授は、その有名な政治哲学「正義(Justice)」の講義のなかで1000人を超えるハーバード大学の学生に、次のような質問をしたことがある。

 

「あなたは今、路面電車の運転をしています。その路面電車はブレーキが故障していて猛スピードで進んでいます。前方には5人の労働者がいてこのまま進めば5人とも死んでしまいます。しかしその少し前にあなたは退避線路があるのを見つけます。あなたがハンドルを切れば5人は助かる状況です」

「ただしその退避線路にも労働者が1人いてあなたがハンドルを切ればこの労働者が死ぬことになります。あなたは、ハンドルを切りますか?」

 この極限的状況であなたならどのような究極的判断を下すだろうか。

 

ハーバード大学の大多数の学生は「ハンドルを切る」に手を挙げた。そしてサンデル教授は、少数派の「ハンドルを切らない」学生にも挙手を求め、意見を聞き始めたのである。

 

 サンデル教授の「正義(Justice)」の講義は2005年にアメリカ公共放送が録画したものだ。その後2009年にハーバード大学の講義としては史上初めて、全米に放映されるとともにインターネットで全世界に無料公開され大きな反響を呼んだ。日本ではNHKが、2010年に米語の音源に日本語を重ねる形で再編集し『ハーバード白熱教室』のタイトルで放映された。当時「白熱教室」は流行語にもなったのはご存知だと思う。

 

 そもそも決して平易とはいえないサンデル教授のこの政治哲学の連続講義が、これほど日本でも反響を呼んだのはなぜだろうか。

 

■ 大規模教室での対話的講義

 

 

 おそらく日本の視聴者がもっとも驚いたのは、日本の学校や教室でありがちな一方通行のレクチャー授業とは対極にある「大規模教室での対話的講義」をサンデル教授が実現していたからだろう。サンデル教授の凄さは、道徳哲学、政治哲学の講義をする際に、その学説が生まれた当時の社会問題の事例や新聞記事になった事件から議論の題材を示していることである。このような対話的講義の手法についてサンデル教授は、第1に「学生に関心のある問題について議論すること」、第2に「学生たちに考えさせ、関わらせるかたちで題材を示すこと」が重要だと述べている。少し専門的になるが、この手法を用いることができるのは高等教育に限らず初等中等教育でも優れた教員に共通した資質・能力である。

 

 ハーバード大学で最も人気が高いといわれるこの講義は昨日今日完成したのではない。サンデル教授はこの講義を30年前から「対話的講義」として構想してきたと語っている。

 

■ 対話の授業がめざすもの

 

 学生との対話や意見交換についてサンデル教授がもうひとつ述べていることがある。対話的講義の一番の難しさは、指導者が意見交換からどのような議論を引き出したいのか、つまり議論のめざすものが明確でなければならないことだという。

 

 我が国の教育で数十年間議論されてきた内容のひとつに、「教え込む授業からの脱却」がある。レクチャー授業ではなく多様な授業展開により生徒間のコミュニケーションを促し、生徒の思考力、判断力や表現力を育成しようというのである。言い方を換えれば「教え込む授業」から「問題解決能力や自己学習能力を育てる授業」への転換である。

 

かつて私は、進学校の管理職からこんな話を聞いたことがある。ある保護者から、「学校での授業は、生徒同士が議論したり学び合ったりすることが大事だと思います。受験問題の解答対策のような内容は塾で習っています」と苦言があり驚いたというのだ。この話から当時私は、学校教育の現状と課題について複雑な思いをもったのだが、学校の授業で学ぶ意味とは何か、生徒がこれからの時代を生きるのに必要な学力や能力とは何かについて、保護者も的確に見抜いているのだと感じた。このような社会的認識こそが、サンデル教授の「白熱教室」の内容が難解であるにもかかわらず日本で幅広く受け入れられた理由のひとつではないかと、私は考えている。

 

サンデル教授の「白熱教室」は、私は後世に残る教育のひとつの姿だと思う。サンデル教授は、「最高の教育とは自分自身でいかに考えるかを学ぶことである」と言っている。

最後に冒頭で挙げた質問に還ってみよう。講義のなかでは、この質問にサンデル教授自身は自分の意見を述べていない。のちの対談で、インタビュアーが意図的に彼に質問したのだ。

彼はインタビュアーにこう語った。

 

「私はハンドルを切ります。しかしもし、退避線路にいる労働者が私の知り合いなら、私はハンドルを切りません」

(浩)

 

※ 本稿は以下のDVDと書籍を参考にした。

「NHK DVD 『ハーバード白熱教室』」 NHK出版 2010

「サンデル教授の対話術」マイケル・サンデル/小林正弥著 NHK出版 2011

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